死因
2008/12/10(水) 18:52:39
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180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/09(火) 23:17:40 ID:U/FGy2Xg 朝鮮出兵で浅野長政は心配で夜も眠れなかった。まだ若い我が子が朝鮮に出兵するのだ。
長政はたまらず清正の屋敷に駆け込んだ。 驚いた清正は兎に角話しを聞いた。
長「まだ若い幸長は血気盛んだ。敵陣に真っ先に突入して死んでしまうだろう」 清「若いならそれくらいの方がよろしいでしょう」 長「異国で日本のような戦が出来ようか?勝手が違うと私は思うのだ」 おろおろするのを見かねた清正は 「なら私が親となり朝鮮では幸長殿の面倒をみましょう」 っと幸長の義父となる事を長政に告げた。 幸長は喜んで屋敷に帰り幸長にその事を伝えた。 其を聞いた幸長も「憧れの加藤様と一緒に戦える」と喜んだ。 翌日二人は揃って清正邸に赴いた。 長「いいか幸長、これよりお前の父は清正殿だ。 知っての通り清正殿は天下に名を知られた武士だ。 お前も清正殿を見習い清正殿のようになれ」 幸「よろしくお願いします、父上」 清「私は子が居ないからいきなり子が出来たようでこれは嬉しいものだな」
その後、朝鮮出兵中二人は泥水啜って戦い抜いた。 幸長は清正を本当の親父のように思い「清正殿に成りたい」と清正を目指した。
帰国した幸長は大いに成長していた。 清正の下で激戦を潜り抜けてきた幸長は立派な将に成長していた。 長政が家康に靡いても幸長は家康の天下を認めながらも豊臣家に尽くした。 幸長にとっては家を盛り上げてくれた恩は豊臣家にあれど一度は謀反人と罰せられた 豊家に思い入れようはあまりない。 しかし彼は武士としての忠を貫いて行動したのである。 それは清正から学んだ忠義の姿勢である。
いつの間にか清正と幸長は豊臣家の二大重鎮となっていた。 彼は清正と並び称される事が誇りだった。
しかし義父である清正死後、後を追うように幸長も死んでしまう。 この二本の柱が折れてしまった事により豊臣家は暴発し滅びる。
↓死因 清正「お主、童貞だな」 幸長「どどど童貞ちゃうわ」 清正「まぁまぁ一緒に街にでもくりだそうや。フヒヒヒヒ」 幸長「ごくりっ…」
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コメント
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どどどど童貞ちゃうわw |
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#TY.N/4k.|2008/12/10(水) 18:55 [ 編集 ]
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梅毒か |
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#-|2008/12/10(水) 18:57 [ 編集 ]
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>幸長は喜んで屋敷に帰り幸長にその事を伝えた
一人芝居か |
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#-|2008/12/10(水) 19:08 [ 編集 ]
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台無しにも程があるw |
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#-|2008/12/10(水) 21:27 [ 編集 ]
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朝鮮出兵って結局大失敗だったんでしたっけ?
日本史で習ったはずなんだけど、まったく覚えていない |
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#-|2008/12/10(水) 22:00 [ 編集 ]
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本来の目的は明(大陸)を制圧することで朝鮮は通り道だったが、途中で秀吉が病死してしまったため取りやめになった。
当時世界一の鉄砲保有国であった日本ならば、あるいは大陸を征服することができていたかもしれない……
と、どっかで聞いた。
って中卒が言ってみるよ |
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#-|2008/12/10(水) 22:47 [ 編集 ]
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朝鮮出兵じゃなくて、ちゃんと唐入りって言えば目標がわかるのにね
当時は唐入りつってたんだよ |
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#-|2008/12/10(水) 22:51 [ 編集 ]
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大陸征服はムリだと思うとマジレスしてみる
これだから戦国武将好きなんだw |
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VIPPERな名無しさん #-|2008/12/10(水) 22:52 [ 編集 ]
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歴史上の偉人ってけっこうどうでもいいようなことでコロッと死ぬよね。 |
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#-|2008/12/10(水) 23:34 [ 編集 ]
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水遊びしてて死んだ名将もいたね。 |
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#-|2008/12/11(木) 01:09 [ 編集 ]
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遠征中に秀吉死んでないだろ? |
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#-|2008/12/11(木) 02:54 [ 編集 ]
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↑
慶長の役は1598年の年末辺りまで続いていて、
秀吉はその年の8月には既に死んでた。
が、遠征軍には伏せられていた。
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#-|2008/12/11(木) 12:53 [ 編集 ]
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朝鮮vs日本じゃなくて実際は明vs日本だったしな。対朝鮮では圧倒していたが明の救援で戦線膠着。
出兵で一番失敗だったのは朝鮮を得ても何もないこと。土地は痩せてる民は飢えてるトドメの朝鮮軍の焦土作戦でメリット皆無。
戦国直後で戦力過多の日本は明とまともにドンパチできる可能性はあった。あくまで腰を据えられれば。当時の朝鮮では橋頭堡には適さなかった。
大名が戦死することは無かったが結局得るものもなく引き上げざるを得なかったのである。
明はこれ含む三つの遠征がきっかけで国力が衰退し清に敗れることになる。 |
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#-|2008/12/11(木) 18:09 [ 編集 ]
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碧帝舘の戦の戦力比は明軍 5000
日本軍16000
明軍は本気出して無かっただけ。
しかも海では朝鮮軍が優勢で結果的に日本軍の惨敗は目に見えてたし。
負け惜しみはよそう |
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BAR #-|2008/12/12(金) 01:06 [ 編集 ]
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↑明軍は50000だろ馬鹿 |
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#-|2008/12/12(金) 06:41 [ 編集 ]
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豊臣秀吉って天皇と明皇帝の娘だかを結婚させようとしてたんだっけ?
今思えば叶わないで良かったな
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#-|2008/12/12(金) 21:17 [ 編集 ]
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>結局得るものもなく引き上げざるを得なかったのである。
ちょっとちがうな。
あの出兵において、「儒学者」と「陶工」を多数日本に拉致したんだが、それが後の江戸幕府の成立にかかわったり、伊万里焼やら何やらになっていったりしたわけだ。逆に出兵しなければ江戸幕府における武士への朱子学思想の統制が出来なかった。
ついでに・・・
加藤清正が連れてきた儒学者は清正に惚れこんで、清正が病死したときに追い腹を切った筈 |
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#-|2008/12/16(火) 23:14 [ 編集 ]
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更に日本に来た陶工やらなんやらは、「職人=下賤」な扱いだった
挑戦と職人を重んずる日本の待遇の違いに慣れて
自由に帰れたにも関わらず「頼むから帰さないでくれ('A`)」って残っちまった。 |
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#-|2009/05/26(火) 15:21 [ 編集 ]
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