日頃行かない板に行ってみよう(日本近代史板)
2008/04/18(金) 14:43:30
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ロマンのあるお話です。 信憑性とかにこだわる方は読まない方がよろしいかと思われます。 あと、とても長い。
爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正の話 その1 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1162752969/
1 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/06(月) 03:56:09 君が爺さん、婆さんから聞いた、リアルな実体験話を 皆に聞かせるためのスレッド。
歴史上の有名人との接触 歴史上重要な出来事に関わった話 先祖が英雄で、身内しか聞けない話 その他、どうでもいいがおもしろい話
こんなところかな 個人的には黒船から日露戦争までの時代の話を聞きたい
とあるスレのご希望により立てさせていただきました。
3 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/06(月) 04:29:14 子供の頃にお歯黒をしてるおばあさんを見た事あるぞ 80過ぎても虫歯が無いし全部自分の歯だと自慢してた
おそらく明治後期に生まれた人だと思う
6 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/06(月) 07:35:45 うちの爺さんは戦争に行ったとき病気で入院し、 本当は治ったのに、体温計をこすって仮病でさぼって たと自慢してた。
7 名前:5[sage] 投稿日:2006/11/06(月) 11:29:43 どうせ仮病(笑)で数日だけ伸びても、近いうちにまた戦場に出なければいけないのは 分かってのこと。
誰もが家族が待ってるのだから、生きて帰らなければならない義務をもってる。 それでも、一度戦場に出れば、がむしゃらに生きようとする一方で覚悟もまた持っている状態に なるんだろう。
そんな中で、あなたのお爺さんが無事帰ってきてくれたから、あなたがいる。 立派な自慢ですよ^^
12 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/06(月) 16:25:14 >>6 うちの爺さんは大陸は広くてひたすら逃げ回ってたから助かったって言ってたな でも、幼い孫には聞かせられない体験したんだと思う 太平洋に行ってたらきっと死んでたとも言ってた
10 名前:日本@名無史さん[age] 投稿日:2006/11/06(月) 16:00:26 俺の友達のおじいちゃんは第二次世界大戦で銃弾を2発浴びながら生還したって自慢してた 子供の頃に傷痕も見せてもらった
とても頑固なおじいちゃんだったな
そのおじいちゃんが飼っているフナやコイを勝手に砂場で川を作り泳がせたら怒られたっけ 確か、俺が18ぐらいの時に亡くなった もちろんちゃんと葬式にも顔を出した
11 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/06(月) 16:10:19 元嫁の3年前に92歳で亡くなった新橋育ちのばあちゃんは、 若い頃に銀座でミルクセーキを初めて飲んで、 世の中にこんな美味しいものがあるのかと思ったって言ってたなw
13 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/06(月) 16:45:00 大正後半から昭和初期の話だが、うちの曾祖母は小卒後、地元の県立工業学校で 自動織機を学びながら働いてて、当時としては貴重な技術だったため、小学校の校長と 同じ給料を貰ってたとさ。 数ヵ月に一度は実家に田畑を買ってやったと言ってた。 歳にして13~だから、今の時代じゃ考えられんな。 俺なら田畑を自前で所有して、零細農家から買ってきた娘を小作兼妾として囲ったなw
16 名前:13[] 投稿日:2006/11/06(月) 17:02:00 そういえば、曾祖母の曾祖父or祖父は徳川慶喜の鷹狩、釣り、カメコ活動の際に 色々と案内してたそうな。 その繋がりで葵紋付きの刀や提灯等々貰ってて、曾祖母が小さい頃はそれらを纏って 慶喜さんごっこをしてたと言ってたw 親戚の子が学校で喧嘩になった時に、その刀を持って報復しに行ったとも言ってたなw 昭和頃に任侠だったおじさんは普通に刀を持ち歩いてたけど、何も言われなかったと。
他にも色々あるけど、総論として今より法律が緩いなと感じる。
17 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/06(月) 18:45:05 >>16 リアル葵の御紋スゲー それって今じゃ重要文化財モノだよね
19 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/06(月) 18:58:04 >>17 どうだろ? 十本近くあったくらいだから、安いのじゃないかな? 一本は実家にあるらしいけど、残りは戦時中に供出したみたい。 他の品はほとんどが台風で屋根ごと飛ばされたと言ってたw とりあえず来年に金を持って行ってみようかと思ってるがw
ちなみに他スレで書いた、大塩平八郎の子孫説がある家だからあまり信用は出来ないw
23 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/06(月) 20:25:17 明治の世になって、天皇さんが京都から東京に在所を変えるのに とにかく貧しくてお金がなかったとかで、当時ものすごい額の御寄付をしたとか言ってたよ。 あと天皇の藩塀だとかなんとかで、東京まで行かされたっていってた。
26 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/07(火) 00:17:43 ウチの婆ちゃん末さん(78・薩摩人)の祖父が西南戦争で火縄銃を持って戦に行っていたと 聞いたことがある。 その当時で火縄銃って本当かな?詳しい人教えて。
それから婆ちゃんのお友達、春さん(80・佐賀人)の実家は庄屋だったらしくて 江藤新平の逃亡している時にかくまった事があるとか言ってましたね。
27 名前:日本@名無史さん[age] 投稿日:2006/11/07(火) 01:50:56 確か西郷どんの軍の武器は旧式のが多かったって本に書いてあったような
江藤さんは斬首されて晒し首の写真が残ってますね…
29 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/07(火) 17:38:26 ウチのヒイヒイ爺さんの兄が神風連だったそうだ。それに感化されたヒイヒイ爺さんは死ぬまで 電気水道ガス電話ラジオを拒否した生活をしといたとか。
31 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/07(火) 18:16:51 神風連の乱にも参加してたの?神風連の乱では殆どが戦で死んだか処刑されたらしいけど ひいひいじいちゃん兄はどうだった? しかしこの当時の若者は頑張ったんだなぁ。新政府と作った方も新政府から弾かれた方も。
36 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/07(火) 23:12:20 うちの祖母ちゃんが子供の頃曾祖母ちゃんから聞いたらしいんだが。日露戦争の時に 玄界灘からドーンという音が何回も聞こえて来てなんかと思ってたら日本海海戦の 艦砲射撃の音だったらしい。
37 名前:OPS[SAS] 投稿日:2006/11/07(火) 23:42:00 祖母の祖母から聞いた日露戦争の話なんですが 祖母の祖母は最初から勝てる見込みは日本になかったっといっていますし。 日本が勝てたのは東郷さんのおかげっといっていたようです。
38 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/08(水) 00:01:58 当時の一般庶民が、歴史的事実をどう認識していたか すごく興味があるので、このスレの方向性いいとおもう
39 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/08(水) 00:07:09 ロシアの自爆だった気がするが
44 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/08(水) 13:06:03 俺の爺さんは戦後シベリアから生還した。
婆さんは空襲で爆弾が落ちてきて死んだと思ったら 肥溜めに爆弾が落ちて不発だったらしい。
間一髪俺がいるんだな。
48 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/09(木) 04:01:02 大正時代婆さんの爺さんが役所の退職金に馬を貰った、とても利口な馬で 農作業中よく脱走したが晩飯時にはちゃんと家に帰ってきたそうな
50 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/09(木) 04:19:27 >>48 ワロスwwwwww のどかだなぁw
63 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/10(金) 16:47:17 うちのヒイヒイ爺ちゃんは佐賀藩お抱えの力士 関取にまでなって大金手にして料亭をいくつか出して妾も抱えて食いつぶしたらしいw そのおかげで高等教育を受けさせてもらえた爺ちゃんは立派に満鉄系の工場に就職したらしく 満州で工場長に しかし終戦で地獄の満州引き上げ、そこで婆様があぼーん 地元に戻ってきて小学校だか中学校だかの校長を務めるもすぐに爺ちゃんもあぼん 中学生のオヤジは集団就職で名古屋に
って感じだな
79 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/10(金) 20:19:16 大正生まれの漏れの親戚のじいさん。 特攻隊の訓練で鹿児島の鹿屋で終戦迎えたそうな。 じいさんの数人前までの隊員がみんなアボーソして、じいさん曰く 「あと数週間終戦が延びてたらアボーソしてたな…生死なんて人間にどうこうできるもんじゃない」
スンゴイ重みのある言葉 ちなみにじいさんがリア消防の頃はそのへんのメカもの(時計、チャリ)を片っ端からバラしまくってた くらいの機械好き。今も精密機器の製造会社を自営でやってる。
最近は携帯電話のアプリを自作しようと挑戦中…携帯バラしてますorz
107 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/13(月) 14:02:59 曽祖父(鹿児島生まれ)が「せごどん(西郷隆盛)は本当は(西南)戦争をしたくなかったんだ」 と言っていた。 あと、せごどんは鹿児島に帰ってきてから、川で着物を洗濯し、それを木に干して、 乾くまでその木の下で昼寝をするような呑気な生活を送っていたそうだ。
113 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/14(火) 06:50:23 死んだ爺さんはノモンハンに従軍して無傷で帰ってきたが、 (今ではソ連側の資料で双方大損害であることが明らかだが) 当事者として感じたのは、 「これだけ装備に差があって勝てるわけがね~」 だったそうです。 もう一方の爺さんはビルマから復員したが、死ぬ間際はうわごとで 「上官殿ォ~!我々はお国と銃後を守らねばならぬ~!」と何度も叫んでいた。。。 おそらくフルメタルジャケット的新兵教育を受けたのがよほど辛い経験 だったと思われる。 あと、さすが軍隊にいただけあって俺のおもちゃのピストルを 指でくるくる回してホルスターに入れるのが巧かったw 幕末でも明治でも大正でもない話ですまそ。
115 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/14(火) 13:33:04 俺が10才の時に死んだヒイ爺さんは、日露戦争開戦時に東京で学生してたが 第二軍第三師団(名古屋)の兵士として出征し、遼陽や奉天で戦っている。 大学の同級生の多くも志願したが、第三軍(旅順攻撃)に配属された 東京・北陸・四国・北海道出身者のほとんどは戦死したそうだ。だから 「乃木のせいでいい奴らが沢山死んだ」と乃木大将の事をひどく嫌っていた。 陸軍の兵士だったのに、海軍の東郷元帥のことを神のように崇めていて、 客間に東郷元帥の御真影が飾ってあった。 太平洋戦争時は「東條みたいなキチガイが起した戦争に勝てる訳がない」と 公言して、非翼賛候補を応援したり、自由主義者を家に匿ったりしたから、 警察に呼び出されたり、私服警官が家の廻りをウロウロしたりしていたそうだ。 もし在郷軍人会の役員じゃなかったら逮捕されていた。 でも戦後は在郷軍人会の役員してたのが仇になってパージ食らって、 共産主義者から吊し上げ食らってたそうだ。「折角戦争が終わったのに、 特高の嫌がらせよりも、アカの嫌がらせの方が陰湿だ」と嘆いていたそうだ。 朝鮮戦争が始まると今度はアカの連中がパージ食らって、ヒイ爺さん達が 復活し、昭和30年頃までは町中が落着かなかったらしい。
119 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/14(火) 20:08:26 大正生まれの死んだ婆ちゃんは大阪のど真ん中に住んでたスーパーお嬢様。昭和の初期に 宝塚観劇に日参し、神戸の外人が経営するケーキ屋やチョコレート屋に買い物に行っていたそうだ。 戦時中は別荘に疎開し、そこでもすき焼きやアイスクリームを食べていたという。 弟は家にある砂糖や水飴を持ち出して、それを餌にナンパ三昧だったそうだ。 現代と変わらない生活をしていたが、死ぬまでヒトラーとムッソリーニは日本に味方をした 素晴らしい人達だと言っていたのが、時代を感じる。
120 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/14(火) 20:18:23 親族じゃないんだけど、大学のゼミの教授の恩師のお爺さんは桜田門外の変を目撃したそうです。 めちゃくちゃ寒い日だったので、襲う方も襲われた方も、手が震えて刀が全然抜けなかったので、 見ていて面白かったそうです。 井伊直弼もほとんどされるがままに首を切られて持って行かれたそうです。
121 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/14(火) 21:27:15 120> 幕末いいね~!桜田門外の変! まだ150年たってないんだよね。俺の爺さん(明治40年生まれ) が若い頃は当時を知る人がいっぱい生きてたと思うと、江戸は遠くに なかりけり。やな!(ちなみに俺31歳が生まれた1975年、まだ江戸時代 生まれが、かろうじて数人生きていた!)
123 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/14(火) 22:25:44 友達のひいじいさんが桜田門外の変で、井伊を襲った一人。 友達の苗字が『芹澤』だから、多分『芹澤』というのだろう。 井伊のお付は刀を布の入れ物に入れていて、その紐を解くのに手間取っていた。 だから襲った側の圧勝だったみたいだよ。 勝負って案外そんな所で決まるんだな。
131 名前:日本@名無しさん[sage] 投稿日:2006/11/15(水) 00:47:56 >>123 いわゆる「桜田十八士」のなかで生き延びたのは 海後磋磯之介と増子金八のみ。
134 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/15(水) 02:21:42 >>123>>131 「桜田十八士」が正しいのなら 関鉄之介、稲田重蔵、山口辰之介、鯉淵要人、広岡子之治郎、黒沢忠三郎 斎藤監物、佐野竹之助、大関和七郎、森五六郎、蓮田市五郎、森山繁之介 海後磋磯之介、杉山弥一郎、岡部三十郎、広木松之介、増子金八、有村冶左衛門
「芹澤」はおらぬ 本当の話なら苗字が変わったんじゃないか
135 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/15(水) 03:13:21 >>123 桜田十八士は、自刃したり傷がもとで死んだり斬刑になったりで 海後磋磯之介(1903年死亡)と増子金八(1881年死亡)以外は翌年くらいまでに死んでる 襲撃の関与者では 金子孫二郎、高橋多一郎、高橋庄左衛門、有村雄介、佐藤鉄三郎、川崎孫四郎 小室治作、大貫多介、山崎猟蔵、島男也竜雄、小野寺慵斎、宮田瀬兵衛 が居るが、ほとんどが自刃、獄死、斬首 例外は追放刑の佐藤鉄三郎(1915年死亡) ちなみに彦根藩側も全員、戦闘や傷で死ぬか無疵で帰邸したことを咎められ斬首だ
ただ襲撃関係のメンバーが20代~50代まで居て、結構歳の人間も多いから子孫自体は居るかもな
138 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/15(水) 17:03:43 大正生まれのうちの爺さん、戦争中は潜水艦にのってました。今でも酔っぱらうと当時の事を話ます。 追い詰められて、音をたてて敵にみつからないよう真っ暗な艦内の中、ただ耐え忍ぶ恐怖。 聞こえるのは敵がおとす機雷の爆発音だけ。極限の状態で思い出すのは母親の顔だったそうです。 こういった体験を自分の子供達に伝えていくことも、僕らの大切な役目だと考えます。
140 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/15(水) 18:14:03 山県有朋や松方正義と話したことのある人が生きている可能性はあるな。
145 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/11/15(水) 19:37:30 >>140 うちの婆ちゃんは91才だが、東郷平八郎と会っている。 どういう理由か、婆ちゃんが通っている女学校に来たそうだ。 生徒を代表して婆ちゃんが「閣下、揮毫して下さい」と言ったら、 気軽に一筆書いてくれたそうだ。それは今でも学校にあるらしい。 何か御言葉があるかと期待していたが、最初から最後まで一言も発せず 声は聴けなかったそうだ。最初耳が聞こえないのかと思ったが 「揮毫して下さい」と言ったら直ぐに書いてくれたので、 聞こえてたはずだとのこと。
146 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/15(水) 19:59:38
オレの曽祖父は大工だった(祖父も)。 その曽祖父が横浜の本牧に、ある政治家の肝煎りで遊郭のようなものを作り始めた。 ところが準備万端整えて建て前までしたのだが、突然打ち切りになった。 曽祖父は引くに引かれず仕方なく最後まで作ってしまったらしい。 曾祖母はそれいらい政治家のことが大嫌いになった。
その政治家とは尾崎咢堂である。
209 名前:日本@名無史さん[age] 投稿日:2006/11/19(日) 11:50:00 明治生まれの俺の爺さんが父親(俺のひい爺さん)から聞かされた話だが、 ひい爺さんは西南戦争に従軍していたらしい。西郷軍には戦国時代の鎧兜姿や 火縄銃を持って従軍した兵士がいたそうだ。そこらへんに腐乱死体が転がっていて 悪臭がひどかったとか聞かされた。
232 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/11/30(木) 15:16:46 俺の婆さん(90歳。ご存命!)が子供の頃、近所に住んでいた老婆は (天保以前、ひょっとして文化、文政生まれくらいか?) 少女の頃、打ち首になった自分の父親の首をフロシキに包んで、家まで 持って帰ってきたらしい。「ミニにたこができる」ほどこの話を聞かされた。
235 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/12/01(金) 00:38:41 俺の爺ちゃん 若い時、本田宗一郎の知り合いで 本田宗一郎がバイク屋を始める時に 一緒にやらないか?と誘われたが 金にならないからと言って断った 爺ちゃんの見る目無し!
237 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/12/01(金) 01:11:00 当時本田家の近所(赤坂?)では「スピード狂のオヤジ」扱いだったらしい
247 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/12/04(月) 18:48:58 父からのまた聞きの話だが、 うちの爺さんかひい爺さんは、幼いころの与謝野晶子のご近所さんで、 与謝野晶子は近所では「あの子と遊んじゃいけません!」なんて言われている 不良娘だったらしい。
250 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/12/04(月) 22:52:13 >>247 ま、今では当たり前だがその頃恋愛結婚なんてふしだらな事やったんだからな 40年前にジーパン履いて歩き回るようなもんだよ
252 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/12/14(木) 21:11:58 うちの祖父は関東軍で、終戦でシベリアに抑留され復員したのは昭和24年。 その時うちの親父は5歳で、写真でしか自分の父親を知らなかったから 写真とは変わり果てた父親から「お父さんだよ」と言われても実感がなく、 見知らぬおじさんだと思って逃げてしまったそうだ。祖父も辛かっただろうな。 シベリアの収容所では全員が栄養失調で、毎日のように戦友が死んだそうだ。 夕べ「おやすみ」と言い合った仲間が、朝になったら死んでいる。 「こんなところで死ねるか、絶対に生きて帰ってやる」と強く思いつづける事で 生き抜いた、と言ってた。8年前に死ぬまでロシア人を呪っていたよ。 祖父の口グセは「ロスケだけは信じるな」だった。
272 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/12/26(火) 22:37:06 うちのひいばあちゃんは明治35年(1901)生まれ、でもって話好き。 四国の生まれだが8歳のとき蝦夷開拓移民団で北海道へ 17歳で四国に帰り大阪へ奉公に そこで結婚した。 北海道へ行く時の船は四国から、下関 金沢 新潟 函館 と(江戸廻船!)ルートだったそうな。 途中で日露戦争の大砲の音を聞いたといってた・・ 北海道の開拓はものすごかったが若かったのでおもしろかったとか クマの話や馬橇に乗るのは病人の出たときだけだったって。 結婚したら米騒動、 鈴木商店や三菱(大阪)の倉庫の周りを 銃剣つけた兵隊さんが囲みその周りを竹やりのおっちゃんたちが囲んでいるのを目撃したらしい。 「男が俵もって逃げるのを見てたら、 ほいねぇちゃん・・いうて米ぎょうさん地面にこぼしてくれて、 おおきに いうて手ですくうて前かけいれて・・」と話し出すときりがない・・・ ばあちゃんの小さいころすでにおばあさんだった人から エエジャナイカ参りの話を聞いて「昔はむちゃしたんやなぁ」と思ったそうです 99まで生きて2000年没
278 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/01/06(土) 14:29:08 ええじゃないか参り うちのおばあちゃんの話 明治の終わりごろすでに年寄りだった人からの伝聞 (at 徳島県北部) 最初はどこから始まるんかわからんのやけどな 道を行列でひとがくるらしい おなかがすいたら、 人のうちの台所(だいどこ)に大勢で勝手に入って そこにあるもん勝手に食べるんやて 文句ゆうたら 「ええやないか、ええやないか、なんでもええやないか」 それだけ言うて、ほかにはなんにもしゃべらへん 人数の勢いで食べたら出て行くねんて 大勢で入れる台所やから大きな家でそんなとこは しゃないなぁ・・ってことになるらしい。 (徳島だから)船も「ええやないか」でどやどやのったら 乗せていってくれたんやて。 お伊勢さんのそばまで行ったらもう歩かれへんほどの人で おまつりみたいやったそうな 「帰りはどうしたん?」(by孫) さぁどうしたんやろなぁ とにかく、返ってはきはったらしいで、四国まできたら お遍路さんのお接待もあるさかいねぇ・・・
こんな話です。(あたしと母とで思い出した分のみ) あんまり話が面白いのでうちではテープにとったものがあるのですが、 昔のオープンリールなので再生ができん。
280 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/01/06(土) 16:43:37 >>278 大学かどっかの研究機関なら涎垂らすぐらい欲しいんじゃないか?それ。
281 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/01/07(日) 19:46:02 278です じつは私も少し関係のある分野にいるのですが ええじゃないか参りについては曾祖母も伝聞ですので あまり資料価値はない様に思うのです
むしろ、米騒動は彼女が実際に経験したものですし いち庶民の事件への受け取り方の例として意味があるかもしれないとは思っていました
ちなみに、うちの父の家は商家で、米騒動のときは襲われて逃げたほう 店を閉めて表戸に筋交いを張り、 二階の物干しから裏の家の屋根に逃げたそうです 表戸はすぐに壊されたそうですが 「いつも来てくれるお客やのに、顔色が変わってた、」 「ああ○○はん・・って名前呼んでも聞こえへんみたいやった」 「引いてはまた戻ってきて波みたいになんべんも入って品物もっていった」
曾祖母は母方でこちらは米の高騰で 一ヶ月近く米櫃がほとんど空だった状態を経験してます 上に書いた鈴木商店倉庫の話はそのときのもので 「あのおっちゃんはええひとやった」 「あのときほど男が頼もしかったことはなかった」 「銃剣つけた兵隊さんもなんもせえへんかった」 「目ぇそらして見えへん振りしてたで、しゃぁなかったんやから」
これはおもしろいとおもいました
336 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/02/24(土) 03:00:43 ハチ公目撃した人ならまだたくさん健在してるな。うちの祖母は ヘレン・ケラーにも会ってるし。曾祖父が出口王仁三郎と一緒に撮った 写真も、なぜか俺のカラー写真のアルバムに混じっててその唐突さにびびった
372 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/03/04(日) 22:32:59 曽祖父の義母は上野の商人の娘。幕末、彰義隊の残党を納屋に匿った。 藁をたくさん積んで、その下に隠したらしい。やがて官軍の追手がやってきて 藁をブスブス槍で何度も刺したが、奇跡的に彰義隊員は助かって逃げられたらしい。 一部始終を目撃していた高祖母は「あんなコワい目にあったことはない」と 昭和30年代に亡くなるまで言い続けました。
556 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/09/05(水) 15:27:14 ID:w7uqlXqRO 20年前に亡くなった祖母の話だと、玉音放送は、集会所で聴く予定だったが、 昆布取りに忙しかった為に無視し、村長から怒られたとの事。 原爆は、星の大きさくらいある爆弾(殺傷能力=火薬量)との認識。
田舎は平和だね~。
597 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/10/06(土) 22:29:13 ID:ljXD8x6a0 曾ばあちゃんが子供のころ(大正初期)、よく家の近くを山本権兵衛が出仕の馬車に乗って 通ってたらしい んで「ゴンベさん」とか言って呼ぶと, 庶民相手なのに「ハイーッ!!」と返事して 馬車上からキチんと敬礼したらしいです
599 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/10/07(日) 14:49:13 ID:meRuoFEf0 >>597 この話ほんとだとしたらこの板で一番レベル高くない? 当時の最高権力者と接したばかりかその素顔まで垣間見るとは・・・
730 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2008/01/19(土) 04:24:16 ID:6m+kPe6GO 道民だが、うちの先祖はクセありまくりだぜ (父方の祖父の家系) 明治中期頃に金沢から北海道へ開拓移住するってんで親族に金借りたはいいが移住後踏み倒しw 当然関係は断絶したが、祖父と向こうの奇特な方が辛うじて手紙のみで通じていた。 んで今年ほぼ100年ぶりに父と母が銀婚式を兼ねて代表として金沢に訪問。家交樹立w (父方の祖母の家系) 曾祖父系、開拓初期に来道し、いい意味で暴れまくる。その頃の書物で漢認定www 曾祖母、大正初め頃に勘当され広島から北海道へ移住。勘当ってwww 当然行き来なし。手紙のみ。んで10年前に祖母姉妹で70年ぶりに広島訪問。家交樹立w
正直、オージー共を笑えん。てか開拓前後の北海道はカオス過ぎて書ききれん。 日本だと思えんよ。 まぁ、何だかんだで両家系とも後に地方名士になるから面白い。 俺?ただの穀潰しwww
731 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/01/19(土) 04:57:20 ID:6m+kPe6GO あっ、何だかスレの主旨と違ってたかな。 ごめんなさい。 お詫びに伝聞した開拓当時の地元の情景。 ・眼下の地面が動いていたので驚いてよく見ると1000頭超のエゾシカだった。 ・川の流れが止まったのでよく見ると川を埋め尽くした鮭の背広が突き出ていただけだった。 ・木を倒して開墾?楽勝wwwと高を括っていたら、ほとんどが御神木並の巨木だった。 ・雷雲かと思いきやイナゴの大群だった。 ・人跡未踏かと思いきや矢尻や日本刀が見つかった。
792 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/02/12(火) 14:01:53 ID:onb5jvjZ0 10年以上前に、爺様婆様の寄り合いで聞いた、俺の町の歴史の話。 うちの地元は山間にひっそりとあって、水呑百姓しかいない貧しい村だった。 街道筋を北上すると、会津がすぐそこにある。 幕末になって戊辰戦争が起こると、会津軍がその街道を辿って逃げてきたそうな。 ほぼ唯一まともな建物だった寺を接収して、去る時に村の建物を焼いてった。 建て直すのにそりゃあ苦労したそうだ。 寺は無事だったんだけど、寺の天井に市松模様ではめ込まれた菊の御紋が 気に食わなかったらしく、一つずつ墨で×印をつけていった。 政変とか正直どうでもいい田舎の百姓、踏んだりけったり。 そんな訳で会津近辺といえど、地元の対会津好感度はそう高くないw 今でも寺には×をつけられた菊印が残ってるから、本当の話だとは思う。
823 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/02/26(火) 15:41:46 ID:0TpKM4jR0 私の祖父がシベリア抑留経験者
シベリア抑留の悲惨な実態を知り、祖父に尋ねてみたが、 「ロシア人は優しかった」と、全く予想外の返事がきた。 祖父曰く、ロシア兵はよく残飯をくれて、それで命が助かったと。 なんとも評しがたい話だが、祖父はただ生還できた事を感謝していた。 祖父の話は他にも、農作業の後収穫したジャガイモが一人に2つずつ 配られ、それで餅を作ったとか、食い物に関してばかりだった。
827 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/02/28(木) 15:40:16 ID:pfkn2GPx0 >>823 光人社の戦記見てても、 ソ連許せねええええええええええええええええええ って人でも、ロシア人は優しかったってみんな書いてるんだよね 大体食い物ネタだが… 友達のじいちゃんから聞いたけど、食べ物はよくもらってたらしい。
あと、捕虜に暴行したソ連将校が二等兵に降格された話とか 日本軍じゃ考えられんって驚いてたな
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コメント
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感慨深い話ばかりだな |
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#-|2008/04/18(金) 15:01 [ 編集 ]
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管理人お疲れ |
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#-|2008/04/18(金) 15:19 [ 編集 ]
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ウチのジーチャンは二次大戦で陸軍で中国に行ってた。
とは言っても国民党軍と共産党軍が戦闘してるのを横で見てるのがほとんどで、たまたま日本軍に矛先が向いたときに手榴弾の破片をひざに食らって帰ってきた。 |
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#-|2008/04/18(金) 16:12 [ 編集 ]
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婆ちゃんは原爆被爆者
二階で寝てたのに目が覚めたら一階だったとさ |
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#-|2008/04/18(金) 16:31 [ 編集 ]
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小学校低学年の時、担任の先生が、
「私のお祖父さんは、日本人離れした顔をしていた(担任の先生も外人美女っぽい美人の先生だった)ので、終戦時に間違えて米国まで連れて行かれてしまい、太平洋を泳いで日本に戻ってきた。そのために肺が片方潰れている」
って言ってたな。
子供の頃は「へースゲー」と信じていたが、今考えると、太平洋を泳いで横断…? |
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#-|2008/04/18(金) 17:11 [ 編集 ]
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俺の母方のじいちゃんは江田島で終戦を迎えた(二号生徒)。
当時の数学とか英語の教科書(軍事教育用のは終戦の時校庭で燃やしたらしい)がまだ実家に残ってる。ザラ紙を紐で綴じた貧相なやつだったけど、勅語の教科書だけは布張りハードカバーだったな。 |
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#-|2008/04/18(金) 17:45 [ 編集 ]
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俺のばあちゃんは太平洋戦争時、北海道のへき地で徴兵も空襲も無くのうのうと暮らしていた。唯一感じたのは、最近ご飯が少ないなということだけだったらしい。 |
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#-|2008/04/18(金) 18:54 [ 編集 ]
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お前らまとめて記事のスレに行ってこいww |
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#SFo5/nok|2008/04/18(金) 19:47 [ 編集 ]
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今月の頭に亡くなったうちの祖父は戦時中学校の校庭で整列してたら隣にいた子に雷が落ちたらしい。
それ以来雷が怖くなったらしく雷が鳴ると部屋に閉じこもってたよ。
もっと色々話聞いとけばよかったなぁ。。。 |
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#-|2008/04/18(金) 21:18 [ 編集 ]
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昔の話を聞ける人がうらやましい |
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あ #sSHoJftA|2008/04/18(金) 22:15 [ 編集 ]
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去年死んだじいさんは、226事件の時に抜身の刀を持った青年将校たちとすれ違ったらしい。
石段の下にかくれてやり過ごしたって言ってた。 |
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#-|2008/04/18(金) 22:55 [ 編集 ]
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薩摩人だった俺のひいひいじいちゃん御料牧場で馬の世話してたらしい
墓石がとにかくデカかった
何か明治維新の頃の戦争にも参加してて勲八等を貰ったらしいが、その辺の話詳しい人居る? |
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#yPyXWbaM|2008/04/19(土) 00:12 [ 編集 ]
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良いなあ。曽祖父母は俺が生まれる前に死んでたから話聞けないし第二次大戦中祖父母はまだ子供でしかも田舎だから大した経験してなかったみたいだ。 |
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#-|2008/04/19(土) 00:29 [ 編集 ]
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すでに死んだじーちゃんの体験談
大戦中、戦友とともに米軍の捕虜になったんだけど
ある日食事にステーキが出てきたらしい
今の感覚からすれば厚待遇と思うがさにあらず
肉食に慣れていない日本人が戸惑って、
ナイフとフォークの扱いに困ってるのを見て笑ってたらしい
とここで切ったらただの反米エピソードだが
実はその戦友、米兵が去った後でうまそうに肉食べ始めたそうな
何もかもわかってて演技してたってこと。 |
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#-|2008/04/19(土) 01:31 [ 編集 ]
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ウチのばあさんは終戦後すぐこれからは英語の時代だ!っていって英文タイプを独学勉強。
女手1つで子供2人育てた。
功を奏してGHQに勤めだしたばあさんが毎日ジープで送り迎えされるのを近所の人は売国奴って呼んでたらしい。
最近その話を聞かされた自分は普通にばあちゃんかっけー!って思った。 |
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#XMatgrFs|2008/04/19(土) 02:29 [ 編集 ]
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すげえな。
と同時にじいちゃんばあちゃん大事にしようと思った。 |
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#-|2008/04/19(土) 03:07 [ 編集 ]
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うちのじいちゃんもロシアで捕虜になっていたらしい。でもロシア人を特別敵視していたわけじゃないみたい。
捕虜の間は農作業中に刈った草?を積んだ馬車に乗って馬を御していたら、草の中にぼふっと落ちてしまったことがあるんだと。じいちゃんは埋もれたまま動けないし、馬は暴走するしで死ぬかと思ったそうだ。するとそれを見ていたロシア兵が馬を止めてくれて「大丈夫か、ヤマダ!」っつって助けてくれたんだってw
他にも大工とかいろいろしたらしい。自分は手が器用だから大分気にかけてもらったとも言っていた。今でもテレビでロシアの特集あるとよく見てる。
それとクラシックが好きでレコードをいっぱい持っていたけど、戦争で全部なくなってしまったとも言っていた。空襲なんてなかった田舎だから持っていかれたりしたのかな? |
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#-|2008/04/19(土) 06:08 [ 編集 ]
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亡き祖父は戦争で中国(本人曰く「大陸」)に行った。
戦闘の事は一切語らず、「慰安婦のコが可愛かった♪」とだけ繰り返していた。朝鮮から来たプロの人だった、との事。
祖父の弟は本人曰く「学がなかったから」東南アジアの激戦区に行かされて、地獄を見たそうだ。 |
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#-|2008/04/19(土) 11:34 [ 編集 ]
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おそらく明治後期に生まれた まで読んだ
泣いた |
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#X.Av9vec|2008/04/19(土) 12:19 [ 編集 ]
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祖父ちゃんと祖母ちゃんは樺太に暮らしてた。
引き揚げの時に家系図とか置き忘れてきたらしいので
先祖の事についてはよく分からんが、曾祖父ちゃんだか
曾祖母ちゃんだかは随分と長生きをしたらしい。
戦時中、祖父ちゃんは樺太の飛行場でビーコン(無線標識)を出す
仕事をやっていたらしい。それ以外の話は何も聞いたことが無い。
戦後は電電公社の支店長にまで上りつめたらしく、十年ほど前に
勲四等瑞宝章を貰った(確か村山富市が総理だった頃)。
80越えた今でも元気で、腰も曲がっていない。 |
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#6Aros7K.|2008/04/19(土) 14:20 [ 編集 ]
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こういうの凄く面白い。
昔の戸籍を見るのも面白いよ。眺めるだけでも。 |
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#-|2008/04/19(土) 14:29 [ 編集 ]
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爺様がインパール帰還兵。終戦後何度も現地に骨拾いに行ってたわ。
なんか兵隊さんの集まり?で出してる本に写真まで乗っててじいさんは凄い人だったんだと感慨にふける今日この頃。 |
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#-|2008/04/19(土) 18:27 [ 編集 ]
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うちのばぁちゃんは、子供の頃おいらが鼻をほじっていると、「そんげことしていると、いまに鼻が腐って落ちてしまうて。わしが子供の頃は、そーいぅ人見たわんね」(新潟弁)と、注意してくれた。
子供心に衝撃を受け、気をつけねばと思ったわけだが、いま考えれば、それは梅毒だったのかも・・・ |
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#-|2008/04/20(日) 00:42 [ 編集 ]
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んま、どうでもいいかもしれないシベリア系のお話。
う~む、うちのじさまは占守(シムシュ)島(漢字あってたっけか?)で通信兵やってたそうな。戦わずにしてシベリア送り。この時点で指を酷使しすぎて数本いかれてたみたい。
シベリアじゃ来る日も来る日も木を切ってたそうな。寒いわ、労働はきついわ、飯はまずいわ。
寒さが限度を超していたらしい。指が腐っていく人もたくさんいたそうな。じいさん、既に指が動かなかったのによく10本の指もっとったわ。
今じゃ黒パン、っていうと黒糖パンだけど、じさまが当時支給された黒パンは味気ないパンだったそうな。そりゃ、当時のソ連に黒糖はないやろ。あっても(国際法上違法)捕虜には支給せんかw
んでも、病院では看護婦さんがロシア語勉強していたらしくロシア語会話を嬉しそうにしてたとの事。そんなにロシアが嫌いじゃなかったんだね。重労働で体はぼろぼろになってたけど。
やっぱやさしかったんか?
そんな祖父、シムシュで銃弾は受けたそうだが…焼いたとき銃弾は出てこなかった。なんだったんだろ? |
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#-|2008/05/18(日) 00:26 [ 編集 ]
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ひいじいさんがA級戦犯。
巣鴨の刑務所に入ってたそうだ。
はげ頭を撫でた事しか覚えてないが、靖国がうーだらこうだらとの話題を見るたび、複雑な気持ちになる。 |
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#-|2008/05/31(土) 15:59 [ 編集 ]
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中学で教わったじいちゃん先生がシベリア帰り。
「ロシア人は、個人個人は親切でいい奴が多かったが、
組織の一員としてはどんな非道なことも平気でやった。
ある意味日本人と似てる」と言ってた。
当時は「なに言ってんだか」と思ったが、
今になってみるとわからんでもない。
>焼いたとき銃弾は出てこなかった
鉛は融点低いから溶けて流れたんじゃ? |
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#-|2008/06/19(木) 14:11 [ 編集 ]
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ウチの母方の祖母の話。
祖母の実家は地元では裕福な方だった。
詳しい話は分からないけど、祖母が少女の時に家に東郷平八郎が来たそうだ。
私が小3か4の時に教えてくれた。
ちなみに、お茶を運んだのは祖母。
そんだけ。 |
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#DAmEijHA|2008/07/12(土) 12:53 [ 編集 ]
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